食と愛の「おいしい」関係

アメリカでベストセラーになった Gary Champman の “The 5 Love Languages: The Secret to Love That Lasts” によると、愛を感じる5つの瞬間に、
- Words of Affirmation (もらって嬉しい言葉)
- Quality Time (充実した時間)
- Receiving Gifts (贈り物)
- Acts of Service (相手を思って何かしてあげる行為)
- Physical Touch (スキンシップ)
を挙げているが、「食」を愛情表現として用いる瞬間が(意識的であってもそうでなくても)日常的に多くある気がする。
好きな人が大変な1日を過ごした後栄養のある食事を作ってあげようと思ったり、お菓子を買ってあげたり、久々に帰省した実家で親の用意してくれた料理になつかしさを感じたり ― Acts of Service に通じる部分もあると思うが、「食」こそ最もシンプルで馴染みのある愛を伝える方法なのではないだろうか?
1粒のチョコレートが一日を変える
思い浮かべてみてほしい。大切な人が初めて自分にふるまってくれた食事、たとえそれが少し焦げた魚と形のいびつな卵焼きだったとしても、私たちの記憶に刻まれたこれらの瞬間は、食と愛の力強い絆の証である。
歴史を通じてみても古代の豊穣を祈る食事を共にする儀式から、結婚式の祝宴、また、多くの文化において「愛している」という言葉が「もうご飯食べた?」に置き換えられるのも不思議ではない。イタリアの大学の研究では「パスタをたべることがストレス解消に繋がる」ということが科学的に証明されている。

私自身も食を通して友達や恋人からの愛を感じたことがたくさんある。
大学4年生の冬に第一志望であった会社の最終面接の帰り、お疲れ様とキムチチゲを作って待っててくれた韓国人の友達のお陰で就活を乗り越えられたと思うし、疲れた時に同僚がくれる一粒のチョコレートに助けられた日がたくさんある。

大学生の時「Food Anthropology」(食の人類学)という授業で「You Are (Not) What You Eat」(食文化はあなた自身を語る(語らない))というエッセイを課された。
私は日本人として日本食のお稲荷さんをテーマに、日本人の中でもお稲荷さんを食べる機会であったり、家系に伝わるお稲荷さんのもつ意味等、その人の食文化によってその人を語ることもできるが、その裏にも色々なストーリーがある、というような内容を半ば強引にまとめて書いた。が、大学1年生だった私はその時、食文化が個人を象徴している(していない)というその矛盾さをいまいち理解できていなかった。
しかし、今この記事を書きながら、その矛盾さが少しだけ深く理解できたような気がしている。
私は大学生の時タイに留学し、タイ人のルームメイトと共同生活をしていたのだが、その時によく「ゲンジュー」(แกงจืด)というタイのスープ料理が好きでルームメイトが作ってくれた。

私の恋人がタイ人で、彼のタイの実家にお邪魔した時に作ってくれたゲンジュ―はルームメイトが作ってくれていたゲンジュ―とはまた少し違う風味がした。同じ「タイ料理」であっても、そこにはその人自身の思い出や家族にだけ伝わる材料やレシピが隠れており、食文化がその人を表すものであって表すものではないことを語っている。
匂いや音楽もそうだが、「食の偉大さ」というか、食が秘める力を人生の様々な局面で感じている。
タイで感じた食を通じた愛
東京とバンコクでの食を取り扱っているTWDCで、私がタイで経験した「食」の思い出をいくつかシェアしたいと思う。

学生時代タイに留学していた時、タイの山奥の小学校に訪れて1週間滞在して英語や理科を教えるボランティアキャンプに参加した。水も電気にも限りがあり、男子はシャワーは小学校の近くの滝で、夜は携帯電話の懐中電灯を使い、小学校の使用していない教室で皆で寝袋を敷いて寝た。基本的にグループで当番が決まっており、日の昇る前に当番は起きて朝6時から全員分のご飯を調理する。


そのキャンプ自体留学生が参加したことはなく、現地の小学生も英語を話せる子は1-2人しかいなかった。もちろん英語の授業では活躍できたし(むしろ教えられるものがそれしかなかった)、日本から来ただけで子供たちに休み時間は追い掛け回されていた。
そんな環境の中で、一緒に参加したタイの現地の学生はご飯の時間になると真っ先に「おいしい?食べれる?」と聞いてくれたし、自分がたくさんおかわりしたメニューがあるとその料理をまた作ってくれたり、食事の時間に特に愛を感じることが多かった。

またタイでは日本にいる時よりも食事の場で、お米含め大皿から料理をシェアする機会が多い。恋人同士であったり、好意を寄せている相手であれば特に、自分の小皿に料理を取り分ける前に相手のお皿に料理を取り分けてあげることが好意(愛)を示す一つの行動とされている。

5-6人でご飯を食べに行った際に、隣に座ってきたイケメンの先輩が自分だけに(「自分だけに」←ここ大事)「これも食べてみて」と言って料理を取り分けてくれた時は本当に惚れそうになったし、元ルームメイトとご飯に食べに行くたびに「ほらもっと食べて」と親のように海老の皮をむいてくれる瞬間がいつも嬉しかったし、今付き合っている彼がいつも料理を取り分けて「おいしい?」と聞いてくる度に愛を感じている(いつもありがとう!)。
国を超えて自分の国とは少し違った食の文化に触れることもなかなか面白い。

この記事を読んでくれている人の中で海外からお客様をおもてなしする機会があれば、積極的により多くの日本食を勧めてみてほしいし、なにか生きづらさを感じている友人がいたら「おいしいご飯を食べに行こうよ!」と誘ってみてほしい。もちろん、少し手間をかけて自分で自分にいつもと違った料理を作って食べることも最高な一日の過ごし方である。
私自身「人生最悪な期間」を経験した時は食欲もなく、ひと月で約5キロ痩せたが、深いことは聞かずに「ご飯食べに行こう!」と一晩で3軒お店に連れまわしてくれた親友の存在が本当にありがたかった。その中で訪れた中華料理屋さんで、お店の人と話していたら賄いで出しているという白米とザーサイをサービスで出してくれて、なんだか涙が出そうになりながらも、そう人生悪くないなと思ったことを今でも鮮明に覚えている。


