遠く、放浪へ。
それは「今」に浸りきっている稀有な瞬間であり、自分の行動にすっかり包み込まれている瞬間だ – 「旅の効用 なぜ人は移動するのか」ペール・アンデション

私は旅は好きだし、冒険的なことも好きなはずなのだが、就職後、旅に行くことをあまりしなくなってしまった。
大学卒業後、1人で暮らし始め、暮らしのあらゆることが楽しく、最寄りの町で遊ぶことも楽しく、近所が遊び場になった。加えて電車で1時間半以内の移動を遠く感じないため、美術館に映画館に公園に飲食店に、その距離の中で行きたいところが山ほどあった。行ったことのないお店に行きたいという動機で降りたことのない駅で降りることも多いのだが(約25年住んでいても、東京の飲食店の多さに毎回驚く)、それもせいぜい1時間半以内の話であった。
そのように外に出るのが好きな一方で、逆説的ではあるのだが、根がかなりの引きこもりでもある。1日中家にいても全く苦ではなく、本を読んだり映画を観たり料理をしたり。昔から、数日間引きこもってても罪悪感も何も感じずむしろ充実した気持ちだったりする。基本的に家で仕事をしている今も、気づいたら数日引きこもっていたりすることもしょっちゅうだ。
結果的に、自分の内面、自分の周辺、そこでの楽しさや小さな挑戦や安らぎに浸り、毎日が過ぎていった。半径1時間半以内、その距離の中で、日々が過ぎ、月が過ぎ、季節が過ぎ、年が過ぎていった。そして気づけば、しばらく旅というものをせず、遠くに行くということをせずに、随分と時が経っていた。
旅の定義
概念的な旅の定義は色々あれど、どストレートな定義はやはりフィジカルな移動だと思う。ここではないどこかに行く、ということ。行きたいかどうかで言えば、世界に行きたいところはたくさんあるはずなのに、行こうと思うところは電車で1時間半以内のところばかりだった (それは実際とても幸せなことでもあるけれど)。遠い場所は、いつか、という言葉で視野の外に追いやっていた。

そんな中、ひょんなことから出張の機会が2024年秋にあり、出張とはいえども久しぶりの飛行機での移動、一瞬だったとはいえ図らずも旅の魅力を思い出したひと時だった。だからこそ、来年こそはもう少ししっかり旅をしたいかもしれない、と思った。
2025年1月に、2月の末の3連休で旅をしないかと友達と話した。3連休あれば、行けるところというのは色々ある。(本当は、2連休あれば行けるところ、というのも色々あるのだと今回気づいた) 久しぶりに新幹線に乗って、2泊3日の旅に向かう。行き先は仙台だ。
旅に行って気づいた。
私は、色々なことを忘れていた。旅の出発の朝、いつもの休日より少し早めに起きて東京駅に向かうこと、新幹線に乗る時の高揚感、何を食べようかどこへ行こうかと予定を立てる時間。窓の外の景色がどんどん変わり、地図で見ると遠いはずなのにあっという間にその長い距離を辿って目的地に着いてしまうこと。
歩いたことのない街中、それも、電車で1時間半以内に家に着くという街中ではない。こんなところにこんな場所もあるのか、を自分の身体で知っていく、その面白さ。実際に行くこと、その場に身を置くこと、そういったことの価値を私は忘れていた。


どんなに離れていたとしても、インターネットを通してなんでもアクセスできてしまう、なんでも観れて共有できてしまう、なんでも想定できてしまう、そんなことは到底なかった。なんとなく想像できる、というのと、実際の体験というのは本当に全く別物なのだ。身体でしか分からないことはある、それを忘れていたのは、どこか自分の驕りだったのかもしれない。
自分の内面・自分の周辺で完結してしまうこと。それは思いの外簡単だった。そこから離れることでしか見えないものがあることを忘れることも、思いの外簡単だった。それを忘れて日々を過ごすうちに、時間はいとも簡単に過ぎていったのだった。
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
茨木のり子さんの、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という名詩がある。
かつては、この詩は違和感だった。感受性は守るものではなく、どうしたって、たとえ抑えつけようとしたって、そこにあるものだと思っていたから。
同様に、「大人になるとだんだんものに感動できなくなる」といった定説にも違和感だった。そんなことあるかと思っていた。
だけれども、実は感受性は簡単に失われてしまうのではないか。
そしてそのうち、例えば日々の生活を雑にすることで失われていくものもあれば、何か新しいもの、遠くのものに触れないうちに、失われていく感受性というのも確実にあるのではないか。世界には自分が知らない場所がたくさんあり、自分が知らない生活、自分が知らない人生というものがたくさんあること、それを忘れることで、閉じてしまう自分の感覚というのが確実にあるのではないか。たとえ、どんなに近くで自分が満たされていたとしても、そうでないにしても。
旅の効能

旅は全ての効能ではないし、何かを解決するために旅に行ったとしても、解決しないことがほとんどだろう。ただ、フィジカルな移動によってでしか得られないもの、受け取れないものというのは確実にある。それは旅の醍醐味であり、旅に特化した価値だ。
遠く、放浪へ。
その効能は自分の想像を遥かに超えたものだった。なにより、自分の想像はいかに想像に過ぎないか、それを知ることができたのだから。行ったことのない場所に足を伸ばし、「行動にすっかり包み込まれ、今に浸る」ことによって。

